記事は前回に引き続き、クルシャ君の葉っぱ遊びが主な内容です。
ごく一部では、どうも本日あたりに世界滅亡する予定になっている
とか。毎度良く懲りませんね、とは20世紀から生き続けている人類の
大半が思ってることでしょう。しつこいんですよ滅亡滅亡って。
世の中に絶えてメディアのなかりせば 滅亡滅亡と煽らざらまし 飼主
滅亡ビジネスの存在を仮定したくなりますね。どこかで現状をドラスティックに
変更したいという鬱勃たる願望は普遍的なものなんだと思います。ただ、この秋
あたりに広範に起こっている水準変更の動きは、滅亡に至らないリフォーメーション
が可能であることを示唆します。現にこういうのを繰り返してきた歴史がありますが、
大事なのは水準変更に伴う見かけの変更に関して、その前後で自分と世界とに関して
嘘を吐かないことですな。あたかも最初から何事も変わっていなかったかのように振る舞う
ことも、あるいはすべてが変わったかのように振る舞うことも極端であって、ちょっとした
変化の前後を人類滅亡と称する誇大な変化と置き換えるような素朴さと同じく、現状と問題
とを把握できていないことを顕わにするだけであります。
意識的であるということは意見の開陳に関して決定的な判定基準になり得る。それは言説その
ものの内的な論理性を越えて、この世的なつながりの中での訴求力を決定する、という当たり前
のことを分かってないのが飼主に相談に来たりしますが、飼主は「時が至ってなんいんじゃないっすかねー」
などと、なんとでも取れる返事をして自覚の水を向けるのを常としております。するとほぼ全員
が自分にとってのみ都合の良い解釈をして同じ事を続ける。
他人のことは容易に断ずるが、自分の事は曖昧にするまたは前言と矛盾した法をあてはめる。
などというのが典型的な例ですね。そもそもが語るに値しない。
また、かような甘えに関して意識的でなければならないという要請そのものが理解できないなど、
歯牙に掛くるに足らぬ。
そんなの相手しないで、どんどん置いていきますからねーと言いながら、クルシャ君と葉っぱ遊び。
葉っぱ遊びに満足する猫
あれから一日以上葉っぱで遊びました。
御覧の通り、葉っぱもずいぶんとしおれて参りました。
しまいには、飼主が葉っぱを振り回しても反応しなくなります。
残酷だな。生き物って残酷だな。好悪の波にされるがままなんだな。
だが、クルシャ君にはそんな自然状態から頭一つ抜け出してもらいたい。
抜け出せるかどうかはともかく、そのための道を示すのがこのブログの目的なんですよ。
知らなかった?
葉っぱもやがて、塩に漬けた西瓜の皮みたいに成って参りました。
ところでこの葉っぱ、猫が噛みしがんでも平気なんだろうか。
不安になってきたぞ。
大事に至る前に、回収して処分しておきました。
水のソーテール3: 悪魔オフィオモルフォス (うるたやBOOKS)東寺 真生,明鹿 人丸うるたや
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