アリアンと遊んでいる近くあたりは、かつて栄えた盛り場
でした。そのもっと前は西陣という陣があったようです。
今、観光地以外でも京都の街並みは、たいへんな速さで変わっています。
記憶の中のあの京都に行こうと思っても、思い立った時には空き地になって
いるかもしれません。
たまに、仁丹の看板は見つけられますが、これもいつまであることか。
奥の方に見える、張り出した二階と、手前にあるブロック塀。
下町なら今でも簡単に見つけられそうですが、この街の変化は歴史を語る
割には、不寛容なくらい過去に対して残酷です。いずれ、こんなありきたり
なものでさえ、跡形も無くなってしまうのです。
だから、今のうちに飼主にはやっておかなければならないことがあるのです。
こうした建物が消えてしまう前に、あの場所を探しておきたい。
あの場所、とはどこか分からない場所です。おそらくどこにもない場所なのですが
たまに連れて行かれるので、印象だけ残っている場所。それは夢で出かける場所
だから、地上のどこでもないわけです。広くて、明るく、見通しの良い、威圧的な
感じのする場所であったり、暗くて狭くて猥雑で人の気配の絶えない場所であった
りします。
飼主と同じ発想を敷衍した人たちが大勢居ます。彼等はおよそ、こんなことを言います。
それは人の夢の中に織り込まれている普遍的な街並で、かつてあったかもしれないし、
将来に見られるかも知れないが、現実である必要はなく、可能な状態で半現実のまま
ストックされている。その姿を現実にすると、懐かしく思えたり、寒々しくかじかんだ
印象になる。初めて出かけた街で、そんな印象を得るのは、誰もが夢で出かける「そこ」
の半現実を、現在の印象が喚起しているからだ。
そうなのかもね。
というより、人である限り、見ているものはそうそう変わらないと思って
良いのです。夢の世界まで飛び抜けて変な人、なんてまずいませんよ。
たとえば、この黒板塀の下に小川か用水路があって、電柱の代わりに太い樹が
あれば、どこかで通ったことがあるような気分になるものです。
え、ならない?
ならないこともある。
いずれ、こういうのを探して回る散歩をするということなのです。
忘れられたり、消え去る手前のものたちには、すでに現実から一歩引いている
という状態にあることによって、例の半現実の可能的な街のストックにより近い
状態にあると言えましょう。
京都は、こういう地蔵堂があちこちにあります。ただ、よく探さないと隠されて
いることがある。
もうすこし、見て回りましょう。
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