20年くらい前に「フェノミナン」って映画がありましてね。
エリック・クラプトンの「 Change the world 」が挿入歌だったりするんだが、
この中のシーンに極めて重要な示唆があって、今でもよく覚えています。
何も主人公の能力が異常活性化するにあたっての秘訣とかそんなことではない。
最も重要なエピソードは主人公とヒロインとの接近に関わる状況です。
ヒロインは田舎で売れもしない椅子を作っては家具屋に卸している。
ほとんど呆れられているけれども止めない。それをトラボルタ演じる
主人公が見抜く。彼女は商売してるんじゃない。自分の愛情を注ぐもの
が何かを示しているんだ、とかそんなニュアンスですね。
この時既に主人公は凡夫から覚醒してたのかどうか定かではない。
もし、超人にならなければ人は人の心を知ることも出来ないなどという
メッセージがこのエピソードに含まれているのだとしたら、もうひとつ
味のある映画だってことになるんですかね。しかし、深読みはしない。
深読みして得るものが大きいのは、猫のささやかな表現だけです。
あまりにささやかなので、見逃してしまう。だから深読みする価値がある。
写真は、御覧の通り、クルシャ君がベッドに運び込んだお気に入りの
おもちゃを自分で背中に乗せてくつろいでいるところです。
最近、クルシャ君はおもちゃを咥えて運ぶだけではなく、たまに自分の
背中にこのような形で掛けて持ってくることがあります。
餌台の前に置いたり、飼主の部屋に鳴きながら運んでくる、おもちゃは
クルシャ君にとって一種の愛情表現の媒体であろうと、今まではそんな
解釈をしておりましたが、もっと未分化な状況にあるかもしれない。
「フェノミナン」のヒロインは、何も売れない椅子を作り続けることが
自らの人生の問題を解決する手段だとか思っていなかったはずです。
他に仕方の無い混沌たるパトスの中にいる。仏教的な無明と言って良い。
この状態が未分化な状態です。
かつて飼主はクルシャ君のおもちゃは「愛惜」の象徴だと結論したましたが
それは飼主にとってであって、クルシャ君においては、おもちゃは愛惜が
未分化な状態にある。
すなわち、象徴は現象の最終過程を経過した後に成立するのであって、
クルシャ君の愛惜そのものは今現在血を流す愛惜そのものとして機能して
いる。「フェノミナン」のヒロインが椅子作りを止めるのは、自らのパトス
がトラボルタによって緩和された時であって、この後に椅子はヒロインの
象徴となるわけです。磔刑後に十字架が救済と贖罪の象徴となったようなもの
であります。
何も愛惜を理解してもらおうとして、おもちゃを仕立てて、さかしらに
おもちゃを扱うようなことを猫はしないわけです。
ちなみに、ウィリアム・ジェイムズの
The Varieties of Religious Experience: A Study in Human Nature(1902年)
『宗教的経験の諸相』によれば、「フェノミナン」の主人公の変化の原因になった
閃光とそれに続く内的変化と似たような事例がいくつか挙げられている。
完全な虚構ではなくて、先行事例を研究してたんですね。
リアルに生きている事の中には、語られないことがいくつもあるのです。
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