ええ、以下の件に関しまして、飼主に同意して下さる経験者が
数多あることについて、疑わないものでありますが
猫と暮らしているからと言って
自分の記憶にある猫の姿と撮影できる動画は一致しない。
むしろ
いつも見てる筈の猫の姿が、待っても狙っても撮れない
と言うべきか。
簡単ながら、今回はそんなお話。
この日も、クルシャ君は飼主の部屋の前におもちゃを運んでは
並べておりました。
運んでくるからには、遊んで欲しいのだろうと思うと、さにあらず。
もう完成した行動を繰り返しているだけであって、おもちゃなんか
飼主が持ち上げてじゃらそうとしても、そんなに反応しない。
遊んで欲しいから持ってきたのではないのか? と。
むしろ、自分が運んできたおもちゃを飼主が持つのを、珍しそうに見る
クルシャ君の様子を動画にいたしました。
おもちゃへの執着が脱落して、彼岸に達すると、こんなことになる。
紐を目で追う猫
本当はね、クルシャ君の好きな紐でじゃらして、飛びついたり
転がったりして遊ぶ様子を動画にしたかったんですよ。
こういうときに限って(と飼主は思う)、面白いことしてくれない。
頭に紐垂らされても気にしない。
ここで、安易に「猫はきまぐれ」なんていう用意された結論に持っていく
安易さを飼主は拒否します。そんなの何も見ていなかったに等しい。
もしくは生きていなかったに等しい。恥ずかしい結論の選択であります。
現に、上の動画の直後に、こんな面白いことしてくれてます。
思うんですが、ごく短い思惑の連続を猫は猫なりに読んでいて、それこそ
生存に役立つような手法で以て、相手(獲物)の裏を常にかくような行動
が彼らの表現の基本のひとつかもしれない。
気まぐれではなくて、お見通しなのです。
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