クルシャ君は、おもちゃを獲物を運ぶようにして飼主の所に
運んでくる、という話をここでしていたかと思います。
おもちゃで遊んで欲しいから持ってくるだけ、ではなくて、どうやら
構って欲しいのと、挨拶に手土産を持ってくるような儀礼的な行動
の中間のような印象です。
手土産ならば、獲物は新鮮でないと意味が無いのですが、クルシャ君の
場合、持ってくるのはいつものおもちゃだから、狩猟の労苦はほぼ皆無。
戸棚開けて(自分でおもちゃの入った戸棚を開けてます)、好きなのを選んで
持ってくるだけですよね。
子猫の時には、対象に固着性のある興味で行動が縛られています。
常に目先のおもちゃだけに集中して、身体行動の統制を行っています。
成長すると、目先の動く物に心を奪われるのはもちろん傾向として
あり続けるものの、おもちゃを介したヒトとの関係をも意識できるように
なるようです。
ヒトが基本的におもちゃを動かしているのですが、子猫時代にはそこまで
見ていない。単に動くから獲物、動きそうだから獲物といった反応。
大人の猫にとって、おもちゃの価値は複雑です。
そのおもちゃは、親しいものであり、ヒトと戯れるものであり、自分が扱うこと
のできる何かとなっていくらしいのです。
言葉を持たないので、言葉のように象徴系を媒介する作用を持つ物品(おもちゃ)の
扱いに関しては、極めて多角的な対応をするようになる。
ベッドで遊ぶ猫
クルシャ君が運んできたおもちゃで、飼主がクルシャ君をじゃらしているところです。
御覧のように、おもちゃは既にベッドの上で誘っている飼主の近くに寄るための
単なるきっかけ、としてしかクルシャ君には作用しなくなっています。
すでにじゃれる気持ちでさえ、じゃれているふりのようにさえ思える。
このようにして、おもちゃは大人になっていく猫にとっては、カッシーラーの文脈
における象徴となっていくのです。疑似獲物がおもちゃという物品になることは
猫の意識の拡大を伴う現象です。
とすれば、猫にとっていくつかのおもちゃがある場合、そのおもちゃの間に
何らかの差異化が発生している可能性があります。価値創造ですね。
飼主にとっては、大人になって醒めた感じで子猫時代のように遊ばなくなって
つまらない、と感じるならば猫に置いて行かれているのだと自覚すべきなのです。
猫には、それらの玩具の価値は子猫時代以上の物になっているのですから。
水のソーテール11: 洗礼のダエーナー (うるたやBOOKS)クリエーター情報なしうるたや
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