以前話したかな、クルシャ君。
判断できないことについては自分の文脈や利害得失に引き付けて
意味を付与せず、戸惑い続けていることを選択した方が良いということに
ついて。意識を維持するためには簡単に意味に飛びつかず、保留すること
を意志で選択した方が賢明なことがある。というより、大抵のことは
すべて明白になるまで判断停止すべきなんだよ。
殊に連続しているようでいて、実は隔絶している場合など、習慣的に
安易な意味付与を行うと、致命的な結果になる。自分が疑ったことの
ない事例についてのことだから、すべて類似のことは同じことの繰り返し
に過ぎないという無思想が大概の悲運の元である。ところが実際は自分の
意味付与を適用された側は、全く別種の意図と文脈で動いている。
こうなると、思い通りにならないばかりか、自分の愚かさを相手のせいに
して、益々自分の作り出した悲運から抜け出せなくなる。
典型的な言いぐさが「優秀な人ならば自分の甘えも許容するはずだ」という
変な理屈。
自分の作った過ちの連鎖に自分が落ちているのに、ちぐはぐな問題の
錯綜の原因が相手にあると思い込んで、そこから抜け出せない。
こうした状態は、常に定期的に同じ事を同じように繰り返すだけで前進
しない物言いに現れることが多いので、悲運の人を見分けるには丁度良い
指標になる。
だがここに、クルシャ君、君のような隔絶した猫がいて、しかも悲運の猫を
生むことについて無頓着であるとしたら、それは良い事であろうか。
確かに、先生の側に居て先生をうまく利用しながらも、実は同じ人間だから
という理由だけで自分の特質や欲ばかり膨らませ、先生の教えで自らを向上
させることもなく、何度も先生を否定し先生に「ペトラン スカンドロン」
呼ばわりされても自らを理解しないような者は悲運の猫になるしかないのだが、
だからといって先生は、弱い者を更に虐げるようなことをすべきだろうか。
その答えが「白竜魚服」だ。紛らわしいことをしてはいけない。
猛毒のくせに、おいしいもののふりをしてはいけない。
たしかに、不注意な者だけが毒殺されるだけだろう。
そしてまた、猛毒であることを標榜しても、愚かな猫は侮って食べてしまう。
だが、侮られることと、悲運の猫を増やすことと、どちらがより罪深いだろうか。
侮った上に悲運に落ちるならば、申し分ない。クルシャ君は気にしなくて良い。
だが、耳ある者には、予告しておくべきだ。ささやく程度で良い。
大声で警告しても、愚かな猫は侮ることしかすまいから。
水のソーテール7: 海のアシラト (うるたやBOOKS)クリエーター情報なしうるたやBOOKS
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