前回の記事で、京洛今出川に先祖の墓が在ることを知ったことから、飼主は回向に向かいました。
東山の霊山歴史館に以前出かけた時には、幕末までに亡くなった志士らが慰霊されていたので、特に縁者は居なかったような気がいたします。もっと先祖を細かく見れば、居るかも知れない。
相国寺境内。
この広い境内をどれほど歩き回っても、我が先祖の慰霊碑なんか無い。
散策の方も観光の方も少ないので、歩き回るのに気分は宜しいのですが。
手入れされた赤松に石段。なかなか良い写真も撮れました。
梅も綻んでいた、2月の末ですか、鳥も境内にはよく遊んでいるのが見られました。
鐘楼でしょうか。気持ちの良い雄渾さを感じます。しかし、慰霊碑というのは無いのか?そろそろ不安になります。境内周辺もマンション開発が進んでいるので、もしや慰霊碑なんか要らんというので撤去されたかも知れんなどと余計なことまで思い悩む。
長州の殉難者墓所というのは見つけました。いよいよ境内の大半を観て回ったものだが、本当に無い。
日中友好の鐘なんかは新造されている。
いよいよ諦めかけて、相国寺正門で案内をしてもらってようやく慰霊碑の場所を教えて頂きました。
それは、相国寺東門から出た先にあるのです。境内には無いのでした。
これか?
慶応四年正月五日。鳥羽伏見の戦いが転換した、男山周辺での戦いに於いて、幕府軍は男山の西に藤堂軍を配置して、薩軍を挟撃する構えであった。幕軍は奇襲、狙撃を繰り返し、薩軍が圧されていた時、小銃六番隊隊長市来勘兵衛が斃れる。正之丞の嫡男、三十歳だった。
御参りするまで150年も掛かりました。
また御参りいたします。天下がどうなっているか、御報告いたしましょう。
ウルタールのうる: 巻二十八 (うるたやBOOKS)
明鹿 人丸うるたや