クルシャ君は知っていると思うが、こっそり書き進めている飼主の『ウルタールのうる』は、単なる異世界冒険譚ではなくてかつての先学らがやったような、思考実験の演習場なんですよ。
通して読んでる御仁は極めて稀かと思われるから、ここで書いても面白みを損ねることもあるまい。
思考実験の一つとして飼主があの世界にセットしているのが「主体はその本質のみによって、整然と評価され得るか?」という問いなのです。
この数年で世界が変貌し、新規の求人も完全リモートワーク前提とか或いは面接官を廃止し、AIに能力読み取りをさせて上から取るなどという合理化が為されつつあることで、飼主の想定よりも現実が追いつき始めていて困ります。
しかしそれでも、所謂偶有的属性つまり非本質的な部分で評価され権威や権力の護持の駒とされる主体はいくらでもいるわけです。現実では、これらが消えることは無い。知り合いが権力に近いからとか、親がなんとかだからとか、人種や言語がより優勢なグループに属するからとか、性別や年齢や髪の色や体格や、とにかく主体の本質と関係ない部分、即ち偶有性によって評価が決せられる場合が偏って大きい。
そのため、飼主はウルタールの世界を、あらゆる種類のあらゆる猫たち可能な限り本質のみによって共存し得るかどうかという社会に設定しながら、矛盾を投げつけて解決できるかどうかという実験をしているわけなのですが、役に立つかも知れないし、見捨てられて終わるかも知れない。いずれにしろ、そう長くは続けない心算であります。
伸び上がる猫
クルシャ君はキャットタワーのいろんな使い方について学習中のようです。
他に同時進行で進めているものとか、待っているものたちとかいろいろとあるのですこう見えても。いずれにしても、ウルタールはひとつの理想になり得るかどうかは考えてみたい。我々のこの世が余りにも、非本質的な部分による選別に充ちているから。
ウルタールのうる: 巻八 (うるたやBOOKS)
明鹿 人丸うるたや