もう屠蘇散を用意しないともう白味噌買わないともう海老芋とか柚子とか用意しないとなどという予定を立てる時期となりました。
これだけ用意しても、できるのは餅無しの雑煮と甘くないお屠蘇だけなんであります。
毎回いろいろと書くべきテーマも用意しているのですが書く際にどれだけ仄めかすが、回りくどくするか、隔靴掻痒感を演出するかに集中してテーマに触れたのかなんだか分からないままに終わることが結構増えたような気がします。
今年の夏頃に「猫の投資はESG」などと直球でやってしまったことをまさか年末にこうしてエクスキューズしなければならなくなるとは思いませんでしたね。
「猫の投資はESG」でさえ、本筋から離れた仄めかしであったのに何か政治的なゼロトレランス的空気を纏うようになってしまっています。もう何一つスタンダードめいたものを掲げられない世界なんですかね、この21世紀の20年代というのは?
秋から冬くらいに投資関連の識者による記事が沢山出ておりまして、その趣旨というのがほぼ同じで、「ESGなんてものは偽善だし詐欺に近い」といった指摘となっております。
これでは飼主が偽善を吹聴した、若しくは詐欺に加担した、かのようではありませんか。ESG自体に問題は無くて、その周辺の有象無象が問題だというのがこれら識者の主張だったりするので、よく読んで貰いたい。
社会インフラや制度や有形無形の財を金融によって形成しようというのが資本主義の名分であるならば、ESGが偽善だと断罪することは一義的に資本主義を否定することになるわけであって、何か良いことのためにカネを蓄積しようとするのは詐欺に違いないなどというのはそもそもが下司の勘繰りみたいなもんだ、と言っておきますよ。
反論すべきところは、明確にやっておきます。
ところで
キャットタワーをもらった猫
クルシャ君は最も眺めが良い場所に、ブレゼントとしてキャットタワーを貰いました。
記事は後ほど。
ある場合に於いては、あなたの理想の実現の為にあなたの才能と人脈と時間と知識と経歴を投入するよりも、あなたの金融資産を正しいことのために投資することの方が、より効率的かも知れない。
そういう選択もあり得る、ということに目を開いて貰いたい。利殖は皆悪である、なんてことを表明する者がまだ居ますからねこの21世紀の20年代に。
杓子は投資できないが、猫は投資します。
なんで猫も杓子もなんていうのかね。「猫も杓子もESG」という記事のタイトルをどこかで見てぞっとしましたよ。
ウルタールのうる: 巻三十一 (うるたやBOOKS)
明鹿 人丸うるたや