冬至である。
約6年間、その発令と計画の進行について我々が見守ってきた日本猫の国計画であるが、その第一段階を達成した。
第一段階は広範な猫のイメージ改善と受け入れ、猫らの幸福度の促進、及び猫と共にあることの幸せを日本国に於いて実感し、ほぼ定性的に確立すること、である。
第一段階達成を祝って、晩秋の吉野で祝い事をするのです。
相変わらず、淋しいことであるな。
来ました、銘酒やたがらす
随分前に飲んだ味を覚えていますが、旨くなってしまっている。とても残念です。
日本酒の味ピラミッドもしくは味立体を飼主の主観でランキングする際に、吉野のやたがらすは、ある一角の頂点だったのです。どの一角か分かりますね?旨くなってることを残念がっているのだから。
本物の柿の葉寿司との相性も悪くないし、やたがらすに会いに来た旅ももう終わりだろうか?
ちなみにこちらの柿の葉寿司、本当にそのへんの柿の葉を用いておりますから、一部紅葉しておりますよ。柿の葉寿司の柿の葉が規格品で無くて何が悪いのかと。
昔ここで飲んだやたがらすが、登山の体力を7割削るくらいの破壊力だったのが懐かしい。
戦前から動いているケーブルカーがどうにも怖いのだけは変わらない。
冬至であるから、飼主十代の時に作った歌でもひとつ。
あやめもわかぬ冥き日にあかく照り映ゆぬばたまの夜 明鹿 人丸
井筒俊彦先生の記念碑的名著『意識と本質』に影響を受けた飼主は、そこからモッラー・サドラーとアリストテレス先生の『形而上学』に耽溺し、『エラノス年鑑』の愛読者となったわけなんでありますよ。しかし『ルーミー語録』については申し訳ないが一読して再読はしなかった。
アリストテーレス先生の『形而上学』及びハイデガー先生の『アインフュールングスインディーメタフィジーク』を読まずに形而上学をその名のみで語る者は恥ずべきですよ。
現に大抵の者が読めてもいない。ヴィトゲンシュタインくらいは薄いから読めるくらいだろ。昔ネットで持論を展開していながら、自らの立場を「唯識」としながら仏教の唯識論について全く無知な男がいましたよ。あんなのが未だに多く居るから、相手してはいけません。何か難しげな事を掲げれば他者が靡くなんてことはないわけで、自分で実直に思索をすれば良いのです。それができない。答えだけ知っていても知恵にはならいし、旗幟鮮明にしたからといって義に加われるわけではない。思索は知恵にとって、conditio sine qua non. みたいなもので勇の実践は義にとっても同様なんである。
石垣の上の斜面の草は、陽光を受けて虹色に波打ちながら輝いておりました。
日本猫の国計画の第二段階の計画を発令すべき時であるな。
ところで世界協定時uctの12時直前に、本日太陽フレアやX線の増加が見られました。前回このような変調が出た直後にはなぜかアジアで気象異常が起きた。英国のほぼ真上なんですが。どうして世界協定時の午前にフレアや磁気異常やX線が出るのかもよく分からない。昨日は午前7時くらいでしたね。その前に見たのがやはり午前11時くらいだったでしょうか。
日天子は金烏。金烏といえば八咫烏。黒いが故によく輝く。冬至ならば格別か。飼主の詠んだ歌と同じであるな。
ウルタールのうる: 巻三十二 (うるたやBOOKS)
明鹿 人丸うるたや