いずれここを写真にしてこのブログで紹介する日が来ると予感していました。以前の住所のすぐ近くだったのですが、10年近く立ち入ることも出来ませんでした。
だって怖いんですもの。
怖くないんですけれども、このように清潔だし明るくもあるし、何ほどかの疚しさも見受けられないわけで、三年前くらいに更地になりつつあった崇仁から旧五条楽園近辺を独りで夜中に歩いて、ただ猫を探して歩いていた時でも怖くなかったわけでして、今回ついに訪れたこの場所は、京都市の最奥部として19世紀後半の空気を保存する地区でありかつ崇仁や楽園跡のように不活化された聖域では無くて、まだ近代初期の営みの埋み火のようなものが残っているので、近寄れなかったというのが正直なところですよ。
やたら長い一文を書いた後で場所を示唆いたしますが、大宮ですね。
床の豆タイルが現役です。
この路地の作り方と、配置はですね京都市でもこの一角とそれから千本仲立売付近の旧西陣京極辺りにしか残ってませんね。所謂、オールドファッションの名残として珍重されている京都市の「会館」の数世代前の姿だと思えば宜しい。
大晦の厄除けに当ブログらしい相応の写真を提供できたと、自負しております。
年頭の10日間ばかり平和で、いきなり暗黒となったこの年の最も深い日に、この深奥部を見るならば、明日よりはもう明るい事ばかりが予期されることでしょう。
外装も内装も手入れされておりますが、店の戸口の前から酔漢が月を見上げる情景なんてものは、何も保存の為に維持されているわけではない、という理由を推察して頂きたい。
板塀の内側が別区画になっています。実のところ、飼主は同じ印象を個別に仕分けて増幅して繰り返し強調するという認知的な癖がありまして、こうした体験は望んでするところではございません。
ディープなものには触れないように暮らしておりますが、あれは山くぐりをしていた10代の頃、獣道の開けた峰に突然草に埋もれた児童公園の廃墟を発見した時の彼岸到達感みたいなものも襲って参ります。
先ほどの共同手洗いを反対側から。
区画の出入り口は二つだけあって、U字型の路地が通りに接続しているようです。
ただいまクルシャ君。
年末にすごいものを見て来たよ。
身の程を知って大人しくしないと、知りませんよ。
何も無いし、安全なものですよ。
またねむたいこと言ってますね。夢です。夢のようなものです。この世界の暗黒化も、なにもかも。
来年はよくなりますかね。
夜と冬を越すために寝ましょう。夢にしかなりません、なにもかも。
暗い。実に暗い夜だ。
水のソーテール 1: 洗礼の天人 (うるたやBOOKS)
東寺 真生うるたや