背中は訣別を惜しむ者の記憶にある誰かについての最後の映像だったりします。
しかし、猫の背中は格別であります。
直観の質からして、背中の意味が違う。
オルテガ・イ・ガセット先生は著書の中で「直観の本質とは女という言葉の想起が必ず笑顔を伴うものであるように共有された普遍性を持つ」などという、実に怪しげな現象学の解釈をなさっていたが、先生はオレステースに対しても同じ事言えんの?って思いますね。
いや、あのオルテガがそんな雑なこと書くだろうかと想い出す範囲だけで記憶を振り返ってみると、オルテガではなくてアウグスティヌスだったかもしれない。
何れにしろ、全女性というか主に母性から公的に暗殺指令を受けた男が陥った狂気において、直観の普遍性など通じないのであります。
冬の乾燥でぱさついているクルシャ君の背中の毛並みをアップで。
猫の背中とは、惜別と結びつきようがないものです。むしろ愛惜の表現が猫の背中。
目を閉じて相手に向かうことさえ控えて、相手の出す音と気配を耳と背中で感じているとき、猫がこのような形で背中を見せてきます。
幸せで満ち足りています、の形であります。
ウルタールのうる: 巻十七 (うるたやBOOKS)
明鹿 人丸うるたや