最近は、弁当に付いている割り箸にでもじゃれ始めるクルシャ君なので、弁当なんか買って戻ると、割り箸の取り合いから始まることもあります。弁当の蓋を開ける前にこうした戦いを一通り経過しておきます。
やはり、買い物袋の中に入れてくれる小物なんかをおもちゃと認識させて遊ばせていたのは良くなかった。猫らしく、猫のおもちゃで遊ぶことにします。
とはいいましても、自分のおもちゃ箱の中は、おもちゃでいつも満杯なんですよね。常に新しい物と入れ替えてますが。
飼主が手にしいてる物ならば、とりあえずたたき落として奪うのが族長の遊び方らしいので、付き合うことにしております。
このまえ、インク壺に浸けて取り上げたペンを横から狙ってたたき落としてくれましたよね。原稿が使えなくなりましたよ。
それでもこうして、いつも横に居て見てくれている猫が居るというのは、幸せでございます。
飼主が持つと欲しがる。おもちゃはあるのに、選ばない。
これ、昔の記号論でいうところのルネ・ジラール『欲望の現象学』そのものじゃないですかね。遊び場に幼児が何人かいて、おもちゃは選び放題の状況を観察していると、誰かひとりの子供が価値に目覚めて遊びに夢中になりはじめる。すると、それを見ていた近くの子供が、自分のおもちゃを放り出して奪いにやって来るとかいう「神話」ですよね。
価値は演出と宣伝によって創出することができる。誰一人、何に価値があるのかを自分で判定する能力などないのである、といった極論に持っていって商売に結びつけている連中も居ますが、それはあんまり消費者を卑下しすぎなんじゃないですかね。
とりあえず、クルシャ君の場合。飼主からその手にしている物を奪ったり、取り落としたりするのは飼主が夢中になっている何かに対して、飼い主に成り代わって夢中になりたい(ジラール的欲望)、からでもなんでもないことは分かります。
クルシャ君は飼主が手にしている何かを奪えば、飼主が取り戻しにやって来るから、挑発のために、なんでも落としに来ているだけなのです。何も持っていないと、肩に登ってきて、飼主の頭を叩くのがクルシャ君ですから。
飼主あしらいが上手くなったね、君
クルシャ君がどこからか語りかけてくる声を不思議がります。
クルシャ君には、今は居ない猫の助言者が感じられるでしょうか。
ウルタールのうる: 巻三十二 (うるたやBOOKS)
東寺 真生うるたや