その日は桜が咲いておりまして、
近所に二年ばかり建て替え工事を行っていた地下鉄駅の
真上のちょっとした建物が新装されて、新規に店も開店
しておりました。
いつも見ているので、このあたりの住民としてはつい
撮影してしまいます。低開発でも珍しいもので。
あの、オーブンの中みたいな祇園祭の前後の日々には
何かしら涼しげなことをしないと、この外装ではほんとに
石窯みたいなことになるんではなかろうか。
関東でこうした植え込みは無いかも知れませんが、このあたり
ではよく見る砥草という、極小の庭に植えてある植物であります。
トクサといっても、土筆の後から出てくるトクサじゃないほうの
トクサです。
地元の名店が入っていたり、目新しい店が入っていたり
いろいろと気になります。
初回だけ嬉しそうにうろついて、結局ネットで買った方が安い
だの便利だの、いつもの店の方が旨いだの言い出すんだろうな
と、今から自らの性分と因果に諦めながらも、その諦めも裏切
られるとまた謙虚になれる。
新しいものならば何でもいいのです。新しいものに触れる
とはそうしたことですし。
新しいものを見て愉しむ心と、毎年咲く花を見て愉しむ心が重なると
春爛漫だなあと思いますね。
山田孝雄の『櫻史』なんて見ると、我々は単に花を見ているのでは無くて
先人の心とも触れているのだな、とよく分かります。
そうでなくては、花の盛りの光に触れた感動を、毎年忘れまいと思いながら
翌年にまた同じ誓いをする意味が無い。
ウルタールのうる: 巻二十八 (うるたやBOOKS)東寺 真生うるたや