満開の頃、撮っておいた菅社の紅梅です。
日頃の通り道なので、花の頃には花を愉しませて頂き、
祭の頃には祭を折々に拝見しております。
通り道には、地蔵もあれば、寺もあり、また
特別な社や史跡もいろいろとあるのでございますが、
新皇を僭称した将門公を祀る社もあります。
新元号が発表される前日に飼主は嫌な気がして
明神社に立ち寄ってみたら、案の定
汚らわしいモノが仕込んであったので、排除して
おきましたよ。
長岡京の時代にいろいろと、怪しげな事が流行して実に
不吉だったことから、遷都したようなことが史書にある
けれども、令和の世になるまでまだ妙なことを試行する
輩が消えていない。
いつまでも居るのだろうけれども、相手されないことで
存在を否定され続けることになる。
まあ、何が言いたいかというと、今宵でひと世のしめくくり。
明日の世へは、花を見に行く参道へ足を入れるような気分で参ろう
ということであります。
世変わりしても何も変わらないというより、常に変転し続けて
いるので、感慨が無いかも知れません。
臣民が矻矻たることを求められていた日々から、玲瓏たる音
を蓄えているかどうか閲される日々となるのであろうか。
小石から玉の選別の時代なんだろうけれども、それまでは混在させられて
たわけだろうから、玉の扱いはむしろ砂利同様であったろうし、厳しく
艱難を求めた成果も無視されてきたわけだ。
菅社の梅は、まさにこうした悪平等や不正義は天神の匂うような
才気を認めないに等しいことだという、歴史の動因のひとつを
忘れないようにしてくれます。
例によって、文意の省略を意図的に行っております。
ご容赦願いたい。
ウルタールのうる: 巻二十八 (うるたやBOOKS)東寺 真生うるたや