子猫時代から時間を分かち合っている猫が、行動を変化させていくのを
観察すること、それがこのブログの目的のひとつです。行動の変化と言いましても
あらゆる可能性を保留して言っているわけで、唯一制限らしきものがあると
すれば、概してそれらは「猫の行動」の範囲での変化としか言い得ないわけ
なんであります。

とはいっても、その猫の行動の範囲などというものにしてもが、制限など
無いに等しいものの、猫の本質の外側には立たない。同一律と矛盾律。
単なる習慣だと思われていた行動が、実は猫自身によって意味づけされた
行動に変化していた、ということを観察者が発見するということがあります。

こうした特異な意味づけの発見は即ち猫における主体的行為の発見であって、
クルシャ君が自らの中で習慣から意識の自由度を拡大させた結果に等しい。
人間の成長過程で特に目立って見られるこうした傾向は猫にだってあるわけです。
基本的な動作や認識に集中していないといけない時期は、過ぎ去るとより低位の
集中を持続するだけで一連の過程が成立する。おかげて余った意識を他に向けられる。
確かインガルテンがそんなこと言ってましたよ。

さて、一緒に暮らす猫であるクルシャ君は有難いことに、飼主のことをよく観察しています。
彼が最も関心を向けているのが飼主かもしれません。日常を繰り返していると、飼主の行動
の常同性というのにやがて気付くわけです。猫にとっても習慣を繰り返すことが大事。
となれば、クルシャ君にとって飼主の日常の繰り返しの発見は、飼主も猫である、いや猫の
仲間に違いないという猫特有の抜きがたい思いなしから、飼主が猫であることの根拠として
彼に受け入れられるのに、そう困難はないわけなのです。

すると、猫である飼主のことについてクルシャ君もただ見守っているだけで済まなくなります。
ここからやっと本題。

アリアンには分かるかな。
側に居てずっと見守っているだけだったクルシャ君が、最近飼主の世話をするような
態度に変わってきているんですよね。「そろそろベッドに行く時間になりましたよ」とか
「もう起きてくださいよ」に始まって、食事や作業の時間まで管理してくれるように
なってきたような気がするのですよ。考えすぎですかね。

あの子、世話焼き猫なの?
指図されてる、とまでは思わないんですけどね。そのへんが微妙。

