すこし綺麗に写したクルシャ君。この日のために用意しておきました。
明日、21日はウルタ君が突然いなくなった日です。
ほんの一年前のことなので、あの日のことをよく覚えています。
空はずっと晴れていて、やや肌寒い日でした。飼主は露店で買い物をしていました。
その日の午後にウルタ君は倒れていました。
買い物を受け取る時に見上げた空の中にとても暗くて冷たい何かが入り込んできて
いるのを感じて胸騒ぎがしました。帰り道にウルタ君がよく外を眺めている窓を下の
道から見上げると、当然そこにウルタ君は居らず、そこにも何かぞっとするようなもの
の侵入を感じてその予感を口にしたのですが、何もしていないのに心拍が上がっている
ことには気づいていました。その時には見上げた窓のすぐ下にウルタ君は倒れていて、
冷たくなってきていたのです。
寒い朝にはウルタ君を抱いて温め、月の高い夜には窓を開けてウルタ君を抱えながら
一緒に月を見上げました。
ウルタ君がいなくなる前日の写真。
ウルタ君がいなくなってすぐに、ウルタ君を見つけようと決めました。決めたと言うより
探して連れ帰らないといけないと思ったのです。ウルタ君とのことはまだ終わっていない
から、彼にとっても戻るのが自然に違いないと感じたわけです。
行ったままにはさせない。でもウルタ君が戻らないなら、あきらめるしかありません。
都合の良いことに、クルシャ君はウルタ君とはまったく違います。
でもウルタ君はここにいるような気がします。どういうことなのかおかしな話ですが
生きている者からすると、去った者はいくつかに分かれるようなのです。
伝統的にもそうです。
古代エジプト(『死者の書』)では、肉体以外にバー、カー、クハーという四つに分かれます。
すると、戻ってくる部分と永遠に去る部分と、さらにずっと一緒の部分とが
生きている者に感じられることは昔から異常なことだとは思われていなかったということで
飼主の感じ方も間違ってはいないのです。
とにかく、ずっといるウルタ君と戻ってきてくれたウルタ君とが傍に居るのだと感じても
いいような気がします。それにクルシャ君もいます。
クルシャ君の行動や癖の中に何かウルタ君と同じ部分があるだろうかと注意してきました。
ところが、性質がまるきり違うので似ている行動もほぼありません。
ただ、最近クルシャ君はかつてウルタ君が好んでほんのわずかだけ食べていた和菓子を
食べるようになってきました。まあ、飼主が与えるから食べるようなのですが。
クルシャ君と明日一日は一緒にウルタ君のことを思って過ごすことにします。
ウルタ君から何か返事があることを信じています。
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