京都市内の街区の様子は日々往事から遠ざかって行きますが今でも不意にその往事への入り口が開くときがあります。同じ道を歩いていても、見過ごすことが多いのです。このような言い方は何も喩えや、誇張ではなくて、本当にこの通りでして、丁度この日は午前中で東から当たる陽が西へ入る区画の入り口を照らしていたから、見つけられた。
アブシンベル神殿の入り口みたいなもんだ。この道なんですけどね。
私道なんだろうけれども、共用路でもある。少しだけ失礼して進みます。
すると正面に地蔵がある。
中央の地蔵を囲むようにして町家があります。地蔵や道祖神、地域では水神、石敢などというのもこの類の設置のされ方をしているわけです。
この形が生きているのが大事。
なんだろうと思って進むと街があるなんて素敵ですね。
本当にお店があったりしますからね。なんだろうと思わなくても、用事で通ったりする。
でも君は外をに出てはいけませんよ。
探検は耳だけでやって下さい。
ところで、先日大正末年から昭和初期の期間の通貨価値を訊ねられて、ざっと計算して852倍だと言い切った。しかし。計算推定の根拠は金本位制だから補助通貨に含まれる純銀価値をスライドしてはじき出しただけなんで、ペンス条約的には正解なんですが、20世紀を通じて銀価格は金に対して4倍くらい下落しているので、インフレ幅は3200倍から3900倍とした方が良かった。
15世紀の価格革命程ではないが、相当銀が増えたようですな。
このくだり、全くの無駄話。
集落入り口正面の施設の意味とは?
外来者に対する告示という御守りというか、辟邪というかそういうものです。ここには安全と静謐を保証しなければならない人たちがいらっしゃるから、注意せよとかそういうことですね。飼主も写真撮ってすぐ退散しましたよ。咳ひとつしてない。
細道の先に別の天地を探る。猫の目に街というのです。
さようですか。それは存じませんでしたよ。
さあ、今日から始めましょうブログ「クルシャの天地」第二部です。
すべてはタイトルを決めた十年前から定まっていました。クルシャ君は自立し、彼自身の天地を見出し、そして獲得していくのです。我々は彼の天地を共有していくことになります。
クルシャースパの長い修行時代は終わりました。
ウルタールのうる: 巻三十四 (うるたやBOOKS)
明鹿 人丸うるたや