最近だけで無く昔からですが、唖然とするようなところで躓いて、同じところでぐるぐる回っている者から、何年か後にも同じ質問されて飼主が同じ返事をするといったことがあります。飼主は適切な返事をしているので、欲しい答えがあるならば質問の仕方を変えれば良いのです。
何故何度も同じ事について同じ文脈で同じ質問をするのだ。
本当に解らないのでは?
そうだろうね。そうに違いないよ。だが、飼主には何も出来ない。本を読んで考えれば済むだけのことなのです。書名も基礎的な資料も論文も挙げているのに、タイトルは理解するけれども内容を読めていないから、同じ質問せざるを得ないんだろう。
というほど飼主も本を読んできた訳では無いのです。世の中には書痴と呼ばれるくらいの本読みなんていくらでもいる。ところが、本のタイトルと検索で出るような情報だけは押さえているが中身を読んでいるとは思えない連中が居る。
こういうのは書痴ではなく、処世ばかりを考えて知を弄ぶ輩だから処痴とでも呼ぶべきだろう。そしてこの処痴というのが、どうせ他人も自己度同様に本を読んでいないに違いないと踏んでいるのかどうか知らないが、書名を挙げながら中身について実と違ったことを吹聴する。これが困る。
呆れますね。
医師やそれらしき学位を持つ者がこうしたことをしているから、滑稽というより恥ずかしくて見ていられない。去年あるラジオ番組で自己の経営に任される組織と建造物を得た責任者が自分の建物にマルティン・ブーバーの言葉を彫らせたなんて話を自分でしていた。その理由については『我と汝』が愛読書だからというのだが、これが汝のduを「おまえ」にしてしまっていて、俺とおまえくらいの友情について書かれた本である、汝は言い過ぎで古典風だなどと大変な間違いを発信していたので、もうこの国の教養は地に落ちたなと寒気がしましたね。友情だと?とんでもない。笑わせるな 笑わせるな
そんなの大五郎で十分だ。随分昔に聴いたから忘れたが、ワニが舎弟になりたがるとかいう与太もあったようだが、所謂酒場の薄ら寒い仲間意識みたいなものや軍隊、スポーツ組織の盟会意識なんてものはブーバーの孤高の精神と何の関係も無い。
民族の歴史と創造の神秘についての洞察が充ちているから尊崇されているのである。よりによってその真逆である、どぶ板臭い長屋根性みたいな物と同一視するなど、神聖冒涜間違いなしだな。
YouTubeにESOTERICAチャンネルというのがあるから、この類の勘違いをしている者があるならば、すぐに観なさい。また同様の処痴諸君はこの際、自分の底の浅さが未だ見抜かれていないとは、思わない方が良いぞ。ちなみに様子からしてスレッジ博士は長く続けられないから、消されない間に視聴すると良い。価値あることを言いすぎる。分からないなら、同じ動画を五十回でも繰り替えして視聴すると良い。処痴はそれくらい物を知らない。
マルティンブーバーのduとは、即ち外部に立つ他者のことであり、要するに神のことである。神であるから、境界を隔てて交わることが出来ない者として二者間に対話が成立する。このような弁証法のモデルのアナロジーをユダヤ神秘主義の伝統とキリスト教の歴史から導いたのがマルティンブーバーの『我と汝』の業績なのだが、件の○長はこの凝縮された叡智の書に何を読んだのであろうか? ゲルショム・ショーレムによるブーバーの評価を読んだことはないのだろうか?
このことについての極めてナイーブな議論が予想されるので、挙げておこう。「他者を仮定しておいてduとするならば、神である必要は無いだろう。友でも良いのでは無いか?」駄目なんである。神で無くても良いかも知れない。他者であれば良い。近世哲学という屈辱的な隘路からの脱出路には「肥大した自我」という大石が転がっていて、こいつを外す為にはアルキメデスの一点が必要とされていたのだ。その点こそがブーバー「汝」というわけだ。
処痴には解らないようだから、もう一度言っておくと、ヘーゲル流の近世哲学の超克にはいろんな手法があるが、最も有効な論理としてブーバーが評価されたことについての認識とその意味を間違うと、他者に対する戦きとか所謂宗教心理学的な文脈に於けるヌーメン的なものについての感覚も全て間違ってしまうから気をつけるように。哲学史を表面的になぞっても、これらの内的な文脈は出て来ないぞ。だから昨今の「知識なんて検索すれば出てくるからタダで価値がない」といった処痴特有の態度が発生したのだ。今の知識がどうなっているか観れば良い。
生きた知識を敢えて分断し、殺している。そう、殺しているのだ。検索で拾えるのは知識の死体だけだ。
何故「duが友であってはいけないか?」、処痴はここまで説明してもまだ解るまい。三度説明しよう。友とは「見知った顔」である。ディアレクティケーに於ける文化内在者同士の交換とは、即ち歴史哲学のアナロジーに過ぎない。この場合に措定される「友」というのは自己B、自己Cとなるであって、他者にはなり得ない。ここまで聞いて解らないなら、ずっと処痴として生き給え。こちらに向いてこないように。何度でも言うが「汝」が「友」であることはあり得ないのであり、ブーバーの『我と汝』が友情の書だと解釈するのは、最も低劣な知性の証でありそれでも「友」であると強弁するならば、恥の上に恥を重ねることにしかならないのである。君は文明に参加しているのか? と疑問を持たれてしまうくらいのことだろう。
こちらとは、新たに開けていく猫の国となるだろう。
そして容易に予想される反論として第二のナイーブな屁理屈があるから挙げておこう。それは「他者として敬われるべき第二者ならばduではなくSieではないのか?だから飼主の指摘は間違っている」というものだ。まず、この言挙げは理屈が成立しない。汝がSieで無いのには理由があり且つ、その理由を知らぬが故の無知に立脚した言挙げとして自らを規定していること。次に、無知を前提にして知を否定していること。これぞ正に処痴の理想的な態度である。処痴とは何事についてもこのように敬意が無く、非論理的であり、盗人の居直りのような理屈を平気で吹く。
『ゾーハル』の研究からブーバーの倫理学と弁証法が生まれたことは言うを俟たない。まさか、汝がSieでないことは指摘できても、『ゾーハル』がこの他者理解の文化の根底にあること「だけ」を都合良く知らないのではないか?無知の上に知を否定するとは、このようなことであり、何をどう繕っても底が浅いというのが処痴なんである。丁度ヘレニズムのグノーシスの影響を強く受けて成立した『ゾーハル』に於いて創造主なるものがどのような扱いと立場を得ているかについては、処痴以外の諸賢はご存知であろう。故に、ブーバーの汝がduであるのは人類史に約束された呼称であると言って良い。ただ処痴だけが右往左往するのである。
では他者とは何か?
恐るべき者、である。
同じような処痴を何人も飼主は見て来ていますよ。書名だけ知っていて、飼主がその本の中身を話し出すと全く応じない。あれ?そんなこと書いてあったかな?読んだけどな?と恍けるが、読んでいないのである。書名さえ知っていれば、なんとか偉そうに出来る程度の知力しか求められていない、これを処痴と呼んでも構わないのでは無いか。処痴は知に携わるべからず、であるよ。
本を読んで自分の頭で考えれば済むだけの話なのに知を偽る処痴というのは、何がしたいのか飼主も理解できないので、離れていますけれども、中にはどうしても理解したいという者があるからある程度は付き合うが、そもそも思考の訓練の基礎が出来ていないとか知的鍛錬の素養が無い場合には「センスの問題です」とだけ言って切ることにしています。こればかりはどうにもならないので初学から習得して頂きたい。これもセンスが無いというのを処痴が理解しない場合もあるから、おいおいそこは君の得意な空気読む能力で理解してくれよと。センスの問題ですとやんわりといなされても、なおその言葉をしてセンシングの問題だと、防衛機制が働いたのか知れないがわざとかのようにパラフレーズしてくる場合もあるから、人間とは面白いものだよ。目も耳も君と私ではそう変わらない。むしろ私の方が悪いのでは無いか?
という具合に、これから月一くらいで雷落としていくかもしれません。というのも、我がブログは運営から「猫ブログ」のカテゴリを得ていないのです。「雷ブログ」になる可能性もある。
雷というか、太陽風直射レベルですけどね。
じゃ世界初の「太陽風直射ブログ」ですよ。
なんでもなあなあにして、すべての尊崇すべきものたちが処痴どもの愚行によって萎れていくのを見過ごす訳にはいかんのです。
それじゃ何か、と。わざわざ角が立たないようにセンスの問題ですと言うのを、もっとはっきりと、君には素養も無いし知識も無いねどうにもならん、しかも自己保身だけは一人前だから切るところなんですよと言えば良いのかね。そうはいきませんよ。
とにかく、弁証法のモデルのアナロジーは倫理学の基礎にも成ります。飼主は、マルティン・ブーバーの『忘我の告白』等を読んで更に進み二者間の神がヒンディーの神への愛(バクティ)をはらんだものならばどうであるか、そしてそもそも「間にある」ということはどういうことであるかというのを整理して、自己の「猫的世界の弁証法モデル」を構築してあるから、今度何かで書きます。
処痴の諸君、私はこのようにして諸君の四歩先を進むが、私の邪魔はしないで欲しいぞ。と、このへんはいつもの煙幕です。
ウルタールのうる: 巻十二 (うるたやBOOKS)
明鹿 人丸うるたや