前回、吉野や熊野の山道でおかしなことがあるなどと示唆致しましたのは、所謂イレギュラーなこと全般です。
沿線にありながら、トタンがカリカリに焦げたような状態になるまで放置されている建物があれば、近寄ってはいけない。たとえば、こういうのは定常的な障害物。
しかし、山道となりますと刻々と状態が変化致します。最悪、道が無くなったりもする。渡していた橋が落ちていたり、落石もある。メマトイなどというブヨの仲間に纏わり付かれて、道を踏み外しそうになることもあるわけです。ここまで申し上げれば分かって頂けるでしょう。何も天狗や龍が出てきて困るというので、これらを祈り伏せて進むわけじゃ無い。
極端な話、遭難しかかった後に、ようやくその日の屋根の下に宿り得て、どうやら今日も死なずに済んだなどと思いながら手にするのがやたがらす。というわけで、昔の記憶と比較して随分味が良くなってしまった、やたがらすの吉野千本桜というのを持ち帰ってしまいましたよ。
安堵して手にするならば、なんでも旨いだろうと思われるかもしれないが、不味いモノは不味い。いやー不味い、生きてるなー、とか流石苦界だけあって何しても嫌なことしか無いなー、などと実感するわけであります。修行か。
戻りますとクルシャ君は、布団を毛だらけにしながら伸びていました。
ウインク☆
アドラボーですクルシャ君。ウルタ君のウインクとは全然違う。
こうして天使の君と暮らすのが飼主の道。
生きるの死ぬのと言っていれば、何か意味があるかのように思えてしまうからみんな黙る。黙るから、異常事態が継続するなんていう腐った実存主義もありますから、己を正しく持ち続けるということは何よりも大切なんであります。
解任左遷などというのが恐ろしいならば、義を為すことは出来ない。義を訴えて死ぬ者を見たからといって、自らも黙するならば、異常事態を追認することになる。異常事態の継続こそは、まさに不義の温床である。不義者は生死を賭して云々と言うだろうが、死線を越えることを恐れるが故にそう言うのか、或いは死線を越えたのか、見る目を持てば実存主義は腐らずに済むのである。見る目を養うには、一度は死線を越えてみるしか無い。実存主義を誰が腐らせたのか? 義を恐れる者達である。
人には猫が必要です。
猫と共に皆様が来年も再来年も正しい道を進まれますように。
日本猫の国計画は、いかなる邪道も抜去していくことでしょう。
なんてことをいいながら、また暖かくなれば吉野に行こう。
ウルタールのうる総集編: 3 (うるたやBOOKS)
明鹿 人丸うるたや