二月も半ばとなりましたが、今年最初の箱入りクルシャ君です。クルシャ君を見ていると、飼主が大昔、無条件に愛されていた日々をつい想い出してしまうよ。
え?そんなことあったんですか?
残念ながらあったんだよ。そこだけが弱みだったんだけど、もう無用だから君を無条件に愛しながら、つい想い出してることをここに書いても影響なくなったんだよ。
とんでもない田舎でね。子鹿が跳ねる姿をした地形になっている、ある地方で、おそらく子鹿の肩のあたりに飼主は隔離されていた。遊び相手も居ない。クルシャ君みたいに箱に入ったり、出たりして遊んでいたが、その姿を見て哀れに思われた我が祖父が、飼主の相手をしてくれた。
2歳くらいの幼児なので、クルシャ君より他愛ない奴だったのだが、爺さんは古い俎板を持ち出してきて、飼主に筆の持ち方と平仮名を教え始めた。俎板に水を使って、筆で字を書くんだよね。爺さんがへんな筆の持ち方を教えたので、飼主は未だに筆の端を摘まむように持つ癖がある。とにかく、字をすぐ覚えたので爺さんは面白がって、論語を覚えさせた。訳の分からんいろは歌だの孟子だのを読ませた。一日の手習いが終わると散歩してから囲碁の相手をさせてから、チョコレートを一片与えて寝かせた。
こんなので幼児が健全に育つわけないんだが、飼主は無条件に愛されてると思ってた。例の俎板は字を覚えた後で、爺さんが庭の木に縄で吊して、鞦韆の尻板に変わった。勝手にぶら下がって遊べと言われたから、遊んで大怪我をした。なんだかその件で爺さんが責められたのを見て、飼主は爺さんが可哀相だと思っていたのは覚えている。この後から爺さんの姿を見た覚えがない。鎮西鎮台総監だった先祖の供養でもしてたんじゃないか。
その教訓は?
幼児には幼児に適した養育、猫には猫のための養育しないといかんということかね。でも、相手のことを知らなくても、不器用で大怪我させようとも無償の愛情は必ず相手に伝わる。今の飼主に爺さんへの感謝があるように。
などという思い出話をクルシャ君にした後で、正月の初釜にお呼び頂いたので、有り難い有り難いと繰り返しながら、外に出ていきました。
手水鉢って、こんな使い道もあるんだな。
お招き頂いた、茶席であります。
過分の礼には何を返せば良かろうか。
道具類を拝見するだけで、いつも余計に時間を使ってしまいます。
飼主にあるものといえば、爺さんから受け継いでいるものだけであります。
本日、編集画面を見たら「ブログ開設から5000日」と書いてありました。付き合いでも、義務でも無いから休み無く続いてます。まあ、土日に予約投稿まとめて入れてるんですけどね。
ウルタールのうる: 巻三十一 (うるたやBOOKS)
東寺 真生