よく寄っている店がまた店舗を増やすそうだ。
第一次大戦終戦から100年。
100年経過して、ようやく分かることもあるし、
100年経ても、おそらく受け止められないこともある。
恐ろしすぎて扱えない事実があったり、思考の対象を
そもそも越えていたり。
それでも、扱おうと試み、その試行錯誤を残した
天才の作品に触れることはできます。
クルシャ君、今日偶然蕭白の「石橋図」を見たのですが、
なんですかね、あれは。
また後に調べてみようと思うが、曾我蕭白の「石橋図」は
頭おかしい。牡丹も文殊も、僧も出てこない。
一見、優れた構図に見えて、さすが蕭白と思うが、二度見
すればその石橋の、画面右から絡みつく雲のような流体は
これすべて無数の獅子の群であることが分かる。
文殊の浄土に至らんとする獅子と子獅子のレミング的な
集合的狂奔が、画面の天地にかけて蟠屈しとるわけである。
これは報われない。
クルシャ君も無数の獅子な姿を見たならば、何が起きているのか
まず知りたいだろうね。
中国五台山に見られる奇瑞から発生したとされる、文殊菩薩
の浄土の伝説が11世紀あたりの『広清涼伝』に記されて伝わったり、
寒山拾得の寒山は文殊の化身じゃなどと言われてたりするんだが、
五台山は険しい岩場があって、それは奇瑞みたいなこともありそう
な景観なわけだけれども、「石橋」の元ネタとも言える『広清涼伝』
に、獅子も牡丹も出てこない。
では、「石橋」の獅子はどこで文殊の浄土に結びつくのか
といいますと、そもそもが文殊の図像的表現につきものだったり
してる。獅子に乗ってる文殊がいたりしますからな。
仏の説法が「獅子吼」だったりするわけで、論説を得意とする
文殊とは結びつきやすいわけだ。
そこへ持ってきて、牡丹だが、いわゆる牡丹は日本固有種ではない。
本朝に入ったのはもっと後でね、能の「石橋」が出来たあたりに
なんとか要素が揃ってきた。
こんなもんですよ。要素を分けて探し出すときりがないの
だが、創作される頃には偶然揃っていて、我々から見ると
創作物は所与の物語のように見えてしまうんだけれども、
それは後に能の「石橋」を最初から与えられた者がモチーフ
にしてるから、画題を見て「ああ揃ってるな、石橋だな」と思う
わけで、そこへ突然、曾我蕭白みたいなのが現れて
「石橋」を描くと、うわ違うなんだこれ、となる。
獅子が牡丹の下で眠るとか、牡丹にじゃれるとかいうのは
中国で作られた奇瑞伝説ではなくて、仏典が由来らしい。
なんでも、牡丹に宿る露が獅子身中の虫なる病原体を滅する
というのだな。
曾我蕭白の「石橋」に見られる獅子と子獅子たちの群体と
そのパトスは何であろうか、というのは、まだよく分からない。
そうなんだクルシャ君、よく分からないんだ。
答えを示すのが天才じゃない、頭おかしいと人を呆然とさせる
ような謎を、塊で差し出すのがだいたい天才というやつだ。
ウルタールのうる総集編: 3 (うるたやBOOKS)明鹿 人丸うるたや