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Channel: クルシャの天地
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ラート博士

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記憶だけを彷徨って、映像鑑賞したり本を読み返したりすることありませんか、クルシャ君。




ありませんね。
はい。言下に否定。人には、あるように思われるよ。しかも、何度も再現し読み替え、そして強化する過程を体験する。そしてこれほど情報にアクセスし易くなっても、自ら掘り起こした記憶を特定できない。例えば、ラート博士がそうだ。






クルシャ君の美しい横顔の特徴は、鼻先の鋭角的なラインだと思います。いつも見惚れていますよ。
さて、ラート博士なんだが、極めて真面目で神経質な御方だ。20世紀初頭、丁度今から100年くらい前の独映画に出てくる主人公なんですよ。それで、その映画のタイトルを失念した上に、検索してもよく分からないのであります。なんだか、サーカスの女性に関わって、全てを失って笑いものに転落するという、何が面白いのか分からない悲劇。こういうテーマが1920年代に頻繁に表現されている。





1925年くらいを舞台にした「嘆きの天使」じゃありませんか。1930年の名作です。ディートリッヒの出世作でもある。恍けるのも大概にしてくださいね。

そうそう。教壇に立つときに本の角を揃えるんですよ。それがね、よく考えなくてもエリアス・カネッティの『目眩』と同じテーマなわけですよ。とても単純な感情に訴えているとしたら前世紀初頭には、こうした何かが欠けている権威の転落、を見ること自体が娯楽として成立してたってことですよね。トーマス・マンの短編にも現れる、抑圧的な操作への暴力的復讐、についても同じような快楽に奉仕していると言える。








なるほど。

分かるよね。では100年後の今はどうなんだろう?ということですよ。格差の拡大と社会構造の歪みに対する隠然たる集合的な怒りの蓄積は似たようなものだ。しかし、同じテーマは現れない。表現は何処を向くべきだろうか?
ここをひとつ間違えると、例のシュレーバー症例になるのだが20世紀の「科学的」な人たちは、敢えてあの狂人の伝記を「在来神学の読み替えである」という核心に言及せず、自説に援用しているのだよ。
21世紀に於いて、なお「科学的」であることほど、胡散臭いことはないのだ。

6月18日。何かの忠告かのように特定の記事の閲覧が急増致しましたので、適法性を考慮し、書き換え加筆修正いたしました。





ウルタールのうる: 巻十六 (うるたやBOOKS)
明鹿 人丸うるたや 

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