ソファーカバーを新調してから、ソファーに張りついているクルシャ君を撮影しました。
興奮しているのがよく判ります。
真夏の昼間なのに、瞳がそんなに細くない。
よく古道具屋で昔の尺時計を見て、買おうか見過ごそうか悩んでいた時、これ猫の瞳で充分だよなと無理矢理納得させたことがあります。明るい時間を刻限で等分していたのが、19世紀くらいの刻限法なわけで、今と違って一刻の長さが毎日違う。
だから義弘の「猫の目時計」も民話ではなくて、実際の話なんだなと理解できたり、裏から判ったりするわけですけれども、いつか書きましたように、穏やかな性質の猫でなければ、クルシャ君のように顔を見ると瞳孔を開かれることになる。
数量的定数時間はテンポラリテートなので、位置的方位的な数量に置き換えることが出来るとハイデガーが言ってましたが、それ逆だよねと最近よく想いますね。「存在」をトポロジカルなアナロジーへと無批判に展開する癖がこの巨人の悪い癖です。
古典を読むと、逆である証拠しか出て来ないんだから、逆なんですよ。
つまり、時間単位から距離を得ている。どうしても近代を悪者にしたいから、なんでも逆にしていた後近代という現代のおかげで、我々は21世紀になっても損をしています。
ぼんやりしているから、クルシャ君に狩られそうになってました。
日没の背後にある山 (うるたやBOOKS)
東寺 真生うるたや